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落ち穂広いの絵画について

おはようございます、サトーです。

僕は普段あまり絵画を見ないです。見てもわからないので。
が、絵画は素晴らしいと思います。

作品が生まれるのには何かしらの文脈が必ず存在していますが、その文脈を知ったときに「あぁ、こうだったのか」という知見は非常に人生を豊かにすると思います、たぶん。

この文章アホっぽいな

 

 

 

 

この”落穂拾い”もその一つだと思います。

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ジャン=フランソワ・ミレー『落穂拾い』

これは1857年にフランスのミレーによって描かれた油彩作品です。
自分がこの絵の文脈を知る前は、ただ農民が稲を拾っているだけかなと思っていました。

落ち穂を拾っている人たちは貧しい農民、それも生存することに重きをおかなければならないほどの困窮した人です。そのような人たちは、畑からの収穫に十分な利益を期待できない、もしくは畑から自分の稲を収穫できない人たちであります。

旧約聖書キリスト教の聖書、またはユダヤ教唯一の聖書)の最初の5つの書であるモーセ五書の一書である、「レビ記」(キリスト教の儀式とかの細則について書かれているらしい)には

「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。」

と、

申命記にも

畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。

と書いてあります。

 

旅人や寡婦などの人たちのために、畑の稲穂を刈りすぎてはならないと言っています。これは宗教の「社会的弱者を救済する社会福祉としての一面」であると捉えれます。

 

突然社会福祉とか持ち出してきて意味わからないと思います。

これについて私の宗教観をついでに書きたいです。

 

私は無宗教(無信仰)です。日本じゃ多数派ですね。神の存在をいないことにしていろいろ考えていきたいです。しかし、宗教には意味があると考えています。科学と法が隆盛する以前、私たちの世界は「教え」によって咀嚼されていました。日本では神道と仏教、諸外国では数多もの宗教があったと思います。それらの宗教が持つ力というのは、別に神や孔子の存在はどうでもよくて、宗教によって認識と社会が形成されたことが素晴らしいのではないかと考えます。

宗教が定める「教え」は哲学を生み、認識を整備し、社会を作り上げたのです。

「落穂拾い」に話を戻します。つまりこの絵画は当時のキリスト教が示す社会福祉制度を表現した絵であった解釈ができます。現在でいう法としての側面を持つキリスト教が示されている絵画であるので、私の記憶に何となく残っているわけです。


別に落ち穂拾いについてあまり調べてないし、宗教を専攻しているわけではないのでこの解釈はうsssssssっすうすの臼太郎なのです。落穂拾いガチ勢の方がいらしたらぜひご解説ください_(:3」∠)_

余談ですが、下の種まく人の絵画からわかる通り、稲農業って米と違って結構雑にやっているんですかね_(:3」∠)_